幼児期より聴覚障害である氏は生まれつき聴覚障害である女性と結婚した。そのふたりの間に生まれた聴覚に問題ない子供が生まれた。そんな家族の日常をつづる。氏は聴覚障害による世界の隔たりを感じつつも、他者の世界に触れること、理解しようと歩み寄ろうとしている。分かり合えないからこそ分かりあおう。そんなメッセージを強く感じた。ああ、世界は今日も美しい。
Contents
本の紹介
優しい本でした。
氏は聴覚障害がある男性で妻も聴覚障害がある。そのふたりの間に生まれた子は健康児(聴覚に異常なし)。
聞こえない世界と聞こえる世界の隔たり。
近くて遠い存在。
本の中にある写真家である氏が撮った写真がこの家族の日常、愛にあふれたものであることが伝わってくる。
人間誰しも隔たりのある世界を生きている。
他者は他者、自分は自分という世界。
私は共感するってことばが嫌いだ。
100%共感するなんてありえない、と思っているからだ。
同じ人間ではないのだから。
障がいというとそれだけで壁が作られてしまう。
障がいを“世界”と訳すとどうだろう。
聴覚障害者は耳が聞こえない世界を生きている人、というように。
だから、障がいがあるないにかかわらず同じなんじゃないかって思う。
心って言うと陳腐なんだけど
誠意っていうと少し重くて
“伝えたい”っていう気持ちと感じ取ろうとする気持ちがお互いにあれば
そこに障がい(=世界)は超えられるのかなっと
人と向き合うことってそういうことなんじゃないかって
一人ひとりが相手に寄り添う気持ちを1mmでも持ち続ければ
世界はもっと良くなる。
そんな気持ちにさせてくれる優しい本でした。
●好きな言葉たち●
樹さんはコーダなんだ。そうか、そうなんだ。
意味や利用価値、そんな効果ばかりを求めて「言葉」にこだわろうとするとき、この大変な人間的な「ことば」を失ってしまう危険を覚えておかなくてはならない。
目線とか、身振り、身だしなみ、、、。それって、ぼくらにとっては「言葉」よりも大事な「ことば」なんだよね
筆談で書かれた「言葉」だけを頼りにしていると、ただ聞くだけでもえらい時間かかる割に、どうでもいいようなことがちょっとわかるだけだし。そんなちょっぴりしかわからない「言葉」の内容よりも、筆談の筆跡とか、握手やハグしたときの体温とか、一瞬の表情とか、歩き方とか、好きな食べ物を一緒に食べたりとか、一緒に過ごすことで伝わってくるそういうものを「ことば」として受け止めると、「言葉」だけではわからない相手の何かが伝わってきて、不思議に取りやすくなるんだよね。
「僕らがまず聴いているものは、『言葉』ではなく『ことば』だ」という気づきだった。それからというもの、手話か音声かという「言葉」でためらうのではなく、感情とからだが直結した「ことば」でもって接することをまず考えるようになった。
こうしたすれ違いは、今後も積み重なってくんだろう。
交わることがない平行線が僕らの姿なのだろう。
僕らの関係に限らず、人と人の関わりは当然そのようにしてできている。
思いかけずぼくらは異なる存在だと告げる初めての日になった
盲者と聴者それぞれに対して新しい関わり方を知ったとき、ぼくの思い込みはほどかれた。世界はより伸びやかになった。
自分とは全く切り離されているかに思えた、異なるふたつの世界がそれでも関わり合ったときの思い出には、いびつながらも奇妙な感動が残る。そんな、苦くて甘い、「異なり」を強く感じることができた日のことをぼくは「異なり記念日」と呼んでいる。